NO.495 あけぼの幼稚園音楽祭

 

2月25日、

若里市民文化ホールで開催された、あけぼの幼稚園の音楽祭にご招待いただきました。

 

 

年少、年中組の可愛いらしい💛

天使の歌声には、

身体中リラックスしたり~♪

また、

年長組の勇ましい太鼓演奏には、

背筋がピシッとし、息をグッと止める感じで

緊張と弛緩のさまざまなバランスで

見させていただきました。

 

 

〝勇気100%〟

〝空は青〟

〝スマイル〟

〝みんなともだち〟

などの歌に、次から次へと涙があふれました。

歌とリズムと身体感覚は繋がっているんですね。

 

 

また、頭から足の先までゆさぶられたのは、

〝信州あけぼの太鼓〟です。

うーん・・・

やっぱり~

〝私たちはリズムにより生きる力を得ている!〟

脳内に血流が起こり、

ドーパミンとセロトニンがバシバシと出た感じです。

 

 

最後には園児と会場が一体となって〝信濃の国〟を歌いました。よく声がでていて素晴らしかったです。

客席から「それにしても…よく覚えてるなあ~」と感心する声が上がっていました。

 

 

わらべうたの時間というカリキュラムを組んでいただき、幼稚園に伺って2年。

子どもさん達の精一杯発表している姿に、感極まって~涙、涙、なみだ・・・

かなりハイレベルな音楽祭ありがとうございました。

 

 

 

ー信濃の国についてー

 信州に住んでいると、あらゆるところで耳にする県歌「信濃の国」。全部で6番まであるけど、1番だけ歌える人が多く、6番まで全部歌える人となると少ないようです。最近「信濃の国」を教えない小学校もあるみたいですが、あけぼの幼稚園では年中組になると、「信濃の国」を日常的に歌う教育をしているそうです。

 

 

 明治大学教授の齋藤孝先生の著書には、素読(そどく)という教育方法の素晴らしさについて書かれています。

 

 戦前までの社会では素読という教育が基本となっていて、素読の場合は、〝意味を理解する前に、語句を暗誦することがもとめられる。頭にではなく、からだにしみこませる方法〟であり、反復練習して身につけられる「型」である。

 年齢的には5~6歳頃から教育が始まり、その頃理解できなかった意味がわからない文が、身体知としての教養で、自分の身の内に蓄えられ、人生のふとした場面で明らかになってくる。  暗誦した古典は、いわば土に埋められた宝石である。それが人生の節々でとりだされ、輝きを放つのである。自分の身の内にどれほどの宝石が埋められているかは、その後の人生を豊かに過ごすうえでとりわけ重要な意味をもってくる。

 暗誦することの軽視は、数十年の人生のスパンで学習の意味を考えない態度からきている。幼いころの暗誦は、いわば表面にあらわれない地下の水脈のようなものである。それは通常には表にあらわれないが、時折、表面に湧き出しては身を潤してくれる。暗誦することは、言語の原風景作りである。

 暗誦が基本的に強制によって成り立つ学習形態であり、意味がわからない文を反復して記憶することは、基本的に苦痛と考えられているが、意味を理解できるものだけを学習内容とするならば、小学校段階までは教材自体が子ども向けの幼稚なものとならざるをえない。

 

 暗誦・素読の素晴らしさや意義は、現在強調されることが少ない。それにはいくつかの要因がある。一つには自分自身が暗誦をした経験がない世代が親になっているということである。暗誦をした経験のある世代は、暗誦したことがどれほどその後の人生にとって有意義であったかを実感している。しかし、敗戦の影響によって、かつての型にはめられた教育が全面否定され、戦後は暗誦の意義を強調する社会的文脈をつくるのは難しかった。古典の素読という教育方法はここで断絶したのである。これは文化の継承という点で大きな損失であった。

(斉藤孝 著「身体感覚を取り戻す」より抜粋)

 

 

 教育について詳しくありませんが、数十年の人生のスパンで学習の意味を考え、古典という宝石をからだに埋め込む点や、文化の継承という点でも、「信濃の国」を幼稚園で教えることは、素晴らしい教育だと思います。

 

 

2017年2月25日  はらやま